折口信夫について
折口信夫は、別名釈迢空。民俗学者、国文学者、国語学者です。また釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもあります。
師の民俗学者柳田国男に沖縄に行くことを勧められ、そこで民俗学者として開眼します。折口は自身の文学的な才能から、大胆な用語「まれびと」「貴種流離譚」など、独自の言葉を駆使しその論文を発表します。厳密さを求める師柳田国男はそのことを快くは思わなかったようです。
彼の成し遂げた研究は「折口学」と総称され、柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築きました。またここに収められた数々の論文が示す通り、国語学にも非常に造詣が深く、優れた論文を書いています。
歌人としては、正岡子規の「根岸短歌会」、後「アララギ」に「釈迢空」の名で参加し、作歌や選歌をしましたが、やがて自己の作風と乖離したため、アララギを退会しました。一九二四年に北原白秋と同門の古泉千樫らと共に反アララギ派を結成して『日光』を創刊しました。次の歌は中学の教科書にもよく取り上げられて知られています。
葛の花踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり (海やまのあひだ)
師の民俗学者柳田国男に沖縄に行くことを勧められ、そこで民俗学者として開眼します。折口は自身の文学的な才能から、大胆な用語「まれびと」「貴種流離譚」など、独自の言葉を駆使しその論文を発表します。厳密さを求める師柳田国男はそのことを快くは思わなかったようです。
彼の成し遂げた研究は「折口学」と総称され、柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築きました。またここに収められた数々の論文が示す通り、国語学にも非常に造詣が深く、優れた論文を書いています。
歌人としては、正岡子規の「根岸短歌会」、後「アララギ」に「釈迢空」の名で参加し、作歌や選歌をしましたが、やがて自己の作風と乖離したため、アララギを退会しました。一九二四年に北原白秋と同門の古泉千樫らと共に反アララギ派を結成して『日光』を創刊しました。次の歌は中学の教科書にもよく取り上げられて知られています。
葛の花踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり (海やまのあひだ)