斎藤茂吉

1882 - 1953

斎藤茂吉について

 斎藤茂吉(一八八二年(明治十五年)〜一九五三年(昭和二十八年))は、日本の歌人、精神科医です。
 伊藤左千夫門下であり、大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物です。長男に精神科医でエッセイストの斎藤茂太、次男に作家の北杜夫がいます。
 中学時代、佐佐木信綱の『歌の栞』を読んで短歌の世界に入り、友人たちの勧めで創作を開始します。高校時代に正岡子規の歌集を読んで歌人を志し、伊藤左千夫に弟子入りしました。
 精神科医としても活躍しましたが、文才に優れ、柿本人麻呂、源実朝らの研究書や、『ドナウ源流行』『念珠集』『童馬山房夜話』などのすぐれた随筆も残しており、その才能は宇野浩二、芥川龍之介に高く評価されました。芥川が一番小説を書かせたいのは誰かと聞かれた際に、即座に茂吉の名を出したという逸話があります。
 以下は芥川龍之介の「僻見」という小文の一部です。


  斎藤茂吉

 斎藤茂吉を論ずるのは手軽に出来る芸当ではない。少くとも僕には余人よりも手軽に出来る芸当ではない。なぜと云へば斎藤茂吉は僕の心の一角にいつか根を下してゐるからである。僕は高等学校の生徒だつた頃に偶然「赤光《しやくくわう》」の初版を読んだ。「赤光」は見る見る僕の前へ新らしい世界を顕出した。爾来《じらい》僕は茂吉と共におたまじやくしの命を愛し、浅茅の原のそよぎを愛し、青山墓地を愛し、三宅坂を愛し、午後の電燈の光を愛し、女の手の甲の静脈を愛した。かう云ふ茂吉を冷静に見るのは僕自身を冷静に見ることである。僕自身を冷静に見ることは、――いや、僕は他見を許さぬ日記をつけてゐる時さへ、必ず第三者を予想した虚栄心を抱かずにはゐられぬものである。到底行路の人を見るやうに僕自身を見ることなどの出来る筈はない。

(中略)

 近代の日本の文芸は横に西洋を模倣しながら、竪《たて》には日本の土に根ざした独自性の表現に志してゐる。苟《いやしく》も日本に生を享けた限り、斎藤茂吉も亦この例に洩れない。いや、茂吉はこの両面を最高度に具へた歌人である。正岡子規の「竹の里歌」に発した「アララギ」の伝統を知つてゐるものは、「アララギ」同人の一人たる茂吉の日本人気質をも疑はないであらう。茂吉は「吾等の脈管の中には、祖先の血がリズムを打つて流れてゐる。祖先が想《おも》ひに堪へずして吐露した詞語が、祖先の分身たる吾等に親しくないとは吾等にとつて虚偽である。おもふに汝にとつても虚偽であるに相違ない」と天下に呼号する日本人である。しかしさう云ふ日本人の中にも、時には如何にありありと万里の海彼《かいひ》にゐる先達たちの面影に立つて来ることであらう。

あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり

かがやけるひとすぢの道遥けくてかうかうと風は吹きゆきにけり

野のなかにかがやきて一本の道は見ゆここに命をおとしかねつも

 ゴツホの太陽は幾たびか日本の画家のカンヴアスを照らした。しかし「一本道」の連作ほど、沈痛なる風景を照らしたことは必しも度たびはなかつたであらう。

斎藤茂吉の作品