三遊亭円朝について
三遊亭圓朝は、江戸から明治への転換期にあって、伝統的な話芸に新たな可能性を開いた落語家です。本名は出淵次郎吉(いずぶちじろきち)と言います。二代三遊亭圓生門下の音曲師、橘屋圓太郎(出淵長藏)の子として江戸湯島に生まれました。
七歳の時、子円太を名乗って見よう見まねの芸で高座にあがりました。後にあらためて、父の師の円生に入門しますが、母と義兄の反対にあっていったんは落語を離れ、商家に奉公し、転じて歌川国芳のもとで画家の修行を積むなどしましたが、後に芸界に復帰します。
十七歳で芸名を圓朝に改め、真打ちとなります。まずは派手な衣装や道具を使い、歌舞伎の雰囲気を盛り込んだ芝居噺で人気を博します、援助出演を乞うた師匠に準備していた演目を先にかける仕打ちを受けたのを機に、「人のする話は決してなすまじ」と心に決めることになります。
以降、自作自演の怪談噺や、取材にもとづいた実録人情噺で独自の境地を開き、海外文学作品の翻案にも取り組みました。
生まれて間もない日本語速記術によって、圓朝の噺は速記本に仕立てられ、新聞に連載されるなどして人気を博しました。これが二葉亭四迷らに影響を与え、文芸における言文一致の台頭を促すことになります。
大看板となった圓朝は、朝野の名士の知遇を得、禅を通じて山岡鉄舟に師事しました。
七歳の時、子円太を名乗って見よう見まねの芸で高座にあがりました。後にあらためて、父の師の円生に入門しますが、母と義兄の反対にあっていったんは落語を離れ、商家に奉公し、転じて歌川国芳のもとで画家の修行を積むなどしましたが、後に芸界に復帰します。
十七歳で芸名を圓朝に改め、真打ちとなります。まずは派手な衣装や道具を使い、歌舞伎の雰囲気を盛り込んだ芝居噺で人気を博します、援助出演を乞うた師匠に準備していた演目を先にかける仕打ちを受けたのを機に、「人のする話は決してなすまじ」と心に決めることになります。
以降、自作自演の怪談噺や、取材にもとづいた実録人情噺で独自の境地を開き、海外文学作品の翻案にも取り組みました。
生まれて間もない日本語速記術によって、圓朝の噺は速記本に仕立てられ、新聞に連載されるなどして人気を博しました。これが二葉亭四迷らに影響を与え、文芸における言文一致の台頭を促すことになります。
大看板となった圓朝は、朝野の名士の知遇を得、禅を通じて山岡鉄舟に師事しました。