橘曙覧

1812 - 1868

橘曙覧について

橘曙覧(文化九年(一八一二年)—慶応四年(一八六八年)は越前国石場町(現福井県福井市つくも町)に生まれました。生家は、紙、筆、墨などと家伝薬を扱う商家でした。
二歳で母と十五歳で父と死別しました。叔父の後見を受け、家業を継ごうとしましたが、二十八歳で家督を弟の宣に譲り、隠遁します。その後京都の頼山陽の弟子、児玉三郎の家塾に学んだりなどしました。また飛騨高山の田中大秀に入門し、歌を詩作するようになります。田中大秀は、本居宣長の国学の弟子でもあり、曙覧は、宣長の諡号「秋津彦美豆桜根大人之霊位」を書いてもらい、それを床の間に奉って、独学で歌人としての精進を続けました。妻子を門弟からの援助、寺子屋の月謝などで養い、清貧な生活に甘んじました。彼の学を伝え聞いて、一八六五年、松平春嶽が、家老の中根雪江を案内に、出仕を求めにやってきたこともあります。
橘曙覧の長男、今滋に『橘曙覧小伝』があります。また彼は父の残した歌を編集し、一八七八年(明治一一年)『橘曙覧遺稿志濃夫廼舎歌集』(しのぶのやかしゅう)を編纂しました。正岡子規はこれに注目して明治三二年、「日本」紙上に発表した「曙覧の歌」で、源実朝以後、歌人の名に値するものは橘曙覧ただ一人と絶賛し、「墨汁一滴」において「万葉以後において歌人四人を得たり」として、源実朝・田安宗武・平賀元義とともに曙覧を挙げています。
彼の歌を編纂したもので『独楽吟』があります。「たのしみは」で始まる一連の歌を集めたものです。一九九四年、今上天皇、皇后がアメリカを訪問した折、ビル・クリントン大統領が歓迎の挨拶の中で、この中の歌の一首「たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時」を引用してスピーチをしたことで、その名と歌は再び脚光を浴びることになりました。


たのしみはあき米櫃(こめびつ)に米いでき今一月(ひとつき)はよしといふとき

たのしみはまれに魚(うを)煮(に)て児等(こら)皆がうましうましといひて食(く)ふ時

たのしみはそぞろ読《よみ)ゆく書《ふみ)の中に我とひとしき人をみし時

たのしみは心をおかぬ友どちと笑ひかたりて腹をよるとき

たのしみは昼寝目さむる枕べにことことと湯の煮《にえ)てある時

たのしみは三人《みたり)の児どもすくすくと大きくなれる姿みる時

橘曙覧の作品