種田山頭火

1882 - 1940

種田山頭火について

 種田山頭火は、一八八二(明治十五)年に、大地主の子として山口県に生まれました。一九〇一(明治三十四)年、東京専門学校(後の早稲田大学)の高等予科に入学します。そして翌年には、早稲田大学大学部文学科に入学します。しかし、神経衰弱のため退学、防府の実家に帰ります。一九〇九年に結婚し、翌年には長男が生まれています。一九一三(大正二)年、三十一歳のときに、荻原井泉水が主宰する新傾向俳句誌『層雲』三月号に初めて投稿句が掲載されました。 同誌五月号にて選ばれた二句に於いて、俳号にも「山頭火」という号を使い始めます。
 一九一六(大正五)年、父の経営する酒造場が経営破綻したため、一家で熊本に移住し、古書店「雅楽多書房」を開業しますが、経営は軌道に乗らず、苦しい生活が続きます。またこの頃弟次郎が自殺し、次第に山頭火は酒に溺れるようになります。一九一九(大正八)年十月、妻子を熊本に残したまま単身上京します。妻サキノとは翌年戸籍上離婚となっています。
 一九二三(大正十二)年、関東大震災に遭い熊本の元妻のもとへ帰りますが、熊本市内で泥酔し、路面電車を止めたところを顔見知りの記者に助けられ、市内の報恩禅寺に預けられ寺男となります。翌年、得度し「耕畝」と改名、味取観音堂の堂守となります。
 一九二五(大正十五)年、寺を出て雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行い、旅先から『層雲』に投稿を続けました。一九三二(昭和七)年、郷里山口の小郡町に「其中庵」を結庵しますが、体調不良から来る精神不安定から自殺未遂を起こします。その後東北地方などを旅した後、一九三八(昭和十三)、山口市湯田温泉街に「風来居」を、さらに翌年、松山市に移住し「一草庵」を結庵します。そして翌一九四〇年、この庵で生涯を閉じました。享年五十八でした。

種田山頭火の作品