ボードレール

1821 - 1867

ボードレールについて

 シャルル=ピエール・ボードレールはパリに生まれました。
 父を6歳のときに亡くし、その1年半後、まだ若く美しい母カロリーヌは、将来有望な軍人オーピックと再婚しましたが、このことはボードレールを深く傷つけました。
 リヨンのルイ・ル・グラン高校に通いますが、最終学年で中退します。その後、別の高校で高校卒業の認定を受け、パリ大学の法学部に籍を置きます。しかし彼は法律を勉強した気配はなく、文学者になると称し、上昇志向の強い中流階級の家族を失望させました。
 20歳になると亡父の遺産を引き継ぎ、中流の家庭にとって身分不相応な散財を行ったため、親族らによって、1841年6月ボードレールは半ば強制的に遠洋航海に出されました。しかし、嫌気がさしたボードレールは途中で下船し、旅半ばで舞い戻ってきます。
 ボードレールの詩作は、20代に大半が書かれたと言われています。しかし彼が最初に文壇に登場したのは、1845年、官展(サロン)の美術批評家としてでした。詩人による美術批評の嚆矢とみなされています。またエドガー・アラン・ポーを翻訳、フランスに紹介した功績もあります。
 ダンディとして知られ、亡父の遺産をもとに散財の限りを尽くしたことにより、準禁治産者の扱いを受け、死ぬまで貧窮に苦しむこととなります。
 生前発表した唯一の詩集『悪の華』が摘発され、そのうちの6編が公序良俗に反するとして罰金刑を受けます。しかし、後に第2版を増補版として出版し、詩人としての地位を確立しました。
 1867年に病没し、モンパルナス墓地に葬られました。翌年、『パリの憂鬱』(『小散文詩』)が出版されました。

ボードレールの作品