瘋癲老人日記(ひらがな)について

 
ひらがなだと圧倒的に読みやすい!
読み比べてみればわかります。この本は、もともと口述筆記で書かれたものですから、わかりやすい方でよめばよいのでは……
 
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(この本について)
 この古典教養文庫版「瘋癲老人日記(ひらがな)」は青空文庫の「瘋癲老人日記」を底本としています。
 読みやすさを重視して、以下のように改めてあります。
一、現代人にはあまり馴染みのない漢字カタカナ文を、普通の漢字ひらがな文に書き換えました。
二、割り注の形で、編集者が注を独自に入れました。
三、一部の漢字表現をひらがなに置き換えました。(例、「兎に角」→「とにかく」)
四、旧漢字を新漢字に置き換えました。(例、「晝」→「昼」)
五、ルビを大幅に追加しました。
六、文字の繰り返し記号は文字に置き換えました。(例、「こゝまで」→「ここまで」)
七、参考写真を何枚か挿入しました。

(谷崎潤一郎について) 
 谷崎潤一郎は、一八八六年(明治十九年)、谷崎倉五郎、関の長男として東京府東京市日本橋区に生まれました。弟の谷崎精二もまた文学的才能に恵まれ、後に作家、英文学者(早稲田大学で教員)となっています。
 府立一中に入学しますが、散文や漢詩をよくし、一年のときに書いた『厭世主義を評す』は周囲を驚かせ「神童」と言われるほどでした。
 一九〇八年(明治四十一年)、一高卒業後、東京帝国大学文科大学国文科に進みますが、学費未納により中退します。在学中に和辻哲郎らと第二次『新思潮』を創刊し、処女作の戯曲『誕生』や小説『刺青』(一九〇九年)を発表し、早くから永井荷風によって『三田文学』誌上で激賞され、谷崎は文壇において新進作家としての地歩を固めていきます。
 関東大震災の後、谷崎は関西に移住し、これ以降ふたたび旺盛な執筆を行い、次々と佳品を生みだしました。長編『痴人の愛』では妖婦ナオミに翻弄される男の悲喜劇を描いて大きな反響を呼びます。続けて『卍』、『蓼喰ふ虫』、『春琴抄』、『武州公秘話』などを発表し、大正以来のモダニズムと中世的な日本の伝統美を両端として文学活動を続けていきます。こうした美意識の達者としての谷崎の思想は『文章読本』と『陰影礼賛』の評論によって知られる。この間、佐藤春夫との「細君譲渡事件」や二度目の結婚・離婚を経て、一九三五年(昭和十年)に森田松子と三度目の結婚して私生活も充実します。
 太平洋戦争中、谷崎は松子夫人とその妹たち四姉妹との生活を題材にした大作『細雪』に取り組み、軍部による発行差し止めに遭いつつも執筆を続け、戦後その全編を発表しました。同作の登場人物である二女「幸子」は松子夫人がモデルとなっています。

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